捨てなくていいーーー何年も着てない服、古い靴や鞄、本、小物、愛着ある「ガラクタ」は人生の宝物である。という表題の本を買いました。
五木寛之さんは今は何処に住んでおられるか存じ上げないのですが、私が存じ上げている時は横浜の白楽に住んでおられました。彼の本を読むとよく横浜の昔が書いてあり、そうよ、そう!と思わず膝を打ってしまうことがあります。今回の本を昨日軽井沢からの帰りの新幹線で読みました。
横浜に昔「港のメリーさん」という女性がいました、という書き出しでメリーさんの事が書いてありました。私も彼女を何度も見たことがありました。私のバレエの師匠大野一雄先生が彼女の一生を映画にされているのも観ました。不思議な女性でした。港のメリーさんに私が会ったのは伊勢佐木町や馬車道、横浜駅の高島屋の特選食堂で会いました。厚化粧というか白塗りで、ウエディングドレス風の白いレースに花かごのようなやはりレースのバッグ、何が人の目を集めるか、こってりと白塗りのお化粧していることと、頭に花をつけていたり、高島屋の特選食堂では何種類もオーダーして、一人では食べきれないほどテーブルいっぱいお料理が並んでいました。彼女の周りは客を入れていない、席を空けていたように覚えています。あれだけオーダーしてお金はどうなったのか?と不思議に思いながら、みんな気にしながら、笑い半分、現実半分で眺めていました。貴婦人が食事をする風でした。大正10年生まれだったともいわれていると五木さんが書いていますが、母が大正7年でしたから、そう変わらない年齢だったのね。ある日横浜市のお役人さんとそごうデパートの役員さんとで伊勢佐木町で食事会があり、その時エレベーターで会ったのが最後でした。いつの間にか亡くなってしまったのね。ものすごくインパクトのある貴婦人風の女性でした。こうして五木さんの本を読んでいると”あぁ~そうよ、そうよと膝を叩きたくなることが書いてあり、やはり白楽に住んでおられたので情報を共有できるのかしら。
あの頃は横浜と言えば本牧の辺りに米兵の住居があり、米兵のためのジャズクラブがあったり、元町の坂を上がったところにクリフサイドというナイト・クラブがあり、私はダンスが好きだったことも有り、良く連れて行ってもらいました。生音楽と本格的なダンス、いい時代でした。ディスコが流行る前ですからね。ディスコなんてモンキーダンスとバカにしていました。
そういえばダンスと言えば当時会社でも当たり前にクリスマスパーティーはバンドが入ったダンスパーティーでした。誰と行くかが問題でね。私は顔や頭はどうでも良かったのですが、やはりダンスが出来る人、それもワルツとタンゴ。不思議なことにダンスが上手なのは東大卒、ダンス部の人、今でも彼のリードは頭に残っていますが、東大のダンス部は毎年優勝すると言われて有名でした。バンド演奏のナイトクラブは元町のクリフサイドが最後くらいでしたか。
日比谷の映画館の前に有ったダンスホール数年前まで営業していました。NYのスーさんに「このビルの最上階にダンスホールがあったのよ」と言ったら「いつの時代よ」と。ほんの数年前まで現実にダンスホールとして生バンドが入って本格的に踊りたい人はプロのダンサーが踊ってくれていました。あのような昔を忍ぶクラッシックな正統派ダンスが出来る殿方がいなくなりましたからね。私はダンスと言えばワルツかなぁ。五木寛之さんの本を読んでいると私のレトロ調が甦ってきました。