私はこの日になると母の母(祖母)が広島にいた私たちが父が兵隊にとられ母と弟と私の3人が大阪の母の実家に居候をしていたのをこの戦争は負けると大阪は危ないから祖母の故郷山口県の富田というところへ疎開したほうが良いということになり、終戦の時は山口県富田にいたらしい(勿論私も弟も幼少)
祖母の危ないというのがまさか新型爆弾原子爆弾とは思いもしなかったと思いますが、危機一髪私たち3人は危機を免れたのですが、もともと大前家の出は広島らしい。父は広島のあかつき部隊から出征しました。そんなことも有り、私は4歳の時のことを全部覚えていないのですが大阪の祖母の家では防空壕に入ったのをかすかに覚えています。防空壕には炬燵がしつらえてありおじいちゃまが私と弟の手を取り庭の防空壕に入り炬燵がしつらえて有ったのをかすかに覚えています。
もう、第二次世界大戦のことを実際に語れる人も少なくなりました。だいたい疎開って何?防空壕とか配給の食糧を覚えている人も少なくなっています。
疎開先で富田という所は北九州が望める山口県だったらしく、よく母は八幡製鉄がねらわれて、九州の方を見ると燃えているのが望め、本当に怖かったのだからと言うのが口癖でした。
母の語りはその富田でよそ者の私たちはひどい目に遭ったと何度も、何度も聞かされました。お芋の半分もくれなかった恨みは戦後山口県を語るとき必ず「あの県の人はケチよ」と。そんなこと覚えている年齢じゃなかったのは幸いです。あ、そうそう、山口県の人は政治好きな人が多く首相も良く山口県からでるでしょう!と憎らしそうに申しておりました。他に産業がないのよ!とか…よほど根に持っていたのね。














