WTCワールドトレイディングセンターに2機の飛行機が飛び込んだ事故からもう25年が過ぎたのですね。
あの報を聞いて娘がエアーラインに入社して間もないころで、今のようにラインや電話が通じないので彼女と連絡を取ろうにも通じなかったので半日以上私は部屋の中をうろうろ、何にも手がつかず心臓はドキドキ、やっと娘から電話でテキサスに来ていて、フライトが全部ストップしたので待つしかない、と生の声を聞いて部屋に座り込んでしまったのを今でもしっかり覚えています。90階建てのビルが2本同時多発と言われる大事件、じっとしていられなくて私は事故後数日であえて誰も乗らなくなった飛行機でNYに行きました。ビジネススクラスに5人、エコノミーに3列位乗ってたかな、後ろは電気も消えていました。かなり不気味なフライトでニユーアーク空港へ。
「FRIX]という映画雑誌にその時のことを書いたエッセイが残っているので、そのまま書いてみます。
NEW YORK STYLE 8回 同時多発テロ後のニューヨークを訪れて感じたこと
悲しみに包まれたニユーヨーク
ニユーヨークとワシントンであの痛ましいテロが有ったのち、私は10日目にニユーヨークを訪れた。未だ事件が生々しく、何と悲しいできごとだったことか。今までこんなに元気のない街の様子に出会ったことがない。ここ10年、景気回復と共にニューヨークの街はきれいになり、名物のホームレスもいなくなった。街はわが世の春を欧歌していたし、たびたび映画の舞台として登場し、私たちを楽しませてくれた。
私がニユーヨークに住んでいた1968年、あのワールド・トレイディングセンターは建設中だった。日系の設計者ということも有り、日本人クラブからの見学会が開催され、足元が危ないと注意を受けながら見て回った事を思い出した。その後、年に数回ニユーヨークを訪ねている間にいつの間にかビルはツインになったが、当時は何の変哲もない、つまらないマッチ箱のようなビルだと実はあまり評価していなかった。
クライスラービルやエンパイヤービルは、アールデコの美しい姿で私たちを楽しませてくれていたが、今回の爆破で初めてマンハッタンの重要な景観が、このワールド・トレイディングセンターだったことを認識した。というのも、今回空港に到着してマンハッタンのアパートに向かうタクシーの中から一生懸命あのビルを捜している自分に驚いた。なんということだ!街の様子がテレビや新聞で見聞きするのとは違い、心の底から悲しく、涙がとめどなく溢れてくるのを止めることができなかった。
慣れ親しんだニューヨークの景色は、心にぽっかりと穴があくという言葉でも足りない、いきなり頭を殴られたような感じで、しばし呆然としてしまった。タクシーの運転手も私の泣いている姿をバック・ミラーで見て、じっとこらえているのが感じられ、事件の日、いかにマンハッタンの交通がマヒしたかを話し出した。マンハッタンの南端に位置するこのビルは3つの空港から必ずみえるし、また目標にもなっていた。目標を失ったマンハッタン島は物悲しく沈んでいた。
犠牲者を追悼する集会に出席
到着した翌日ヤンーキースタジアムで”PLAYER FOR AMERICA”という集会があり、どうしても参加したいと思っていた。集会に関してインターネットでで調べていたので、チケットをニューヨークに住む、友人に頼んでいた。友人と共にブロンクスの消防署に受け取りに行き、その足でヤンキー・スタジアムに向かった。手に手に星条旗を持つ人々が、ものすごい警戒の中スタジアムに入った。どういうわけか日本人の姿はまったく見かけなかった。日本のマスコミだけが私を取り囲む。5,6社のインタビューを受けたが、余りにもピント外れの質問に、我を忘れて怒ってしまった。領事館はまだ死亡が確認されていないからと、この集会の「手配をしなかった」というではないか。集会は事件後12日目。それでも生存を夢見てるという常識外れに、いくら希望的観測を持ちたいとしても、あの惨状を確認しながら、遺族に伝えられない日本の役所的な行動は理解に苦しむ。集会は各宗教の司祭がそれぞれの言葉で祈りを捧げ、5000人とも6000人ともいわれている犠牲者になった方々の冥福を祈った。
ドミンゴが「アべ・マリア」をリー・グリーンウッドが「GOD BLESS AMERICA]を熱唱したが、涙がとめどなく溢れた。勿論ジュリアー二市長、クリントン元大統領夫妻。タパキ州知事たちが参加していた。目の前にいたクリントン元大統領は群を抜いて素敵だった。この集会は当初セントラル・パークで予定されていたが、警備の都合でヤンキー・スタジアムに変更になった。私は皮肉にも野球では1度も行ったことがなかったが、このイベントに参加でき、このスタジアムは生涯忘れられない場所になった。
それから2週間マンハッタンに滞在し、取材を重ねるうちに、亡くなった方々のドラマが胸にせまり、何度街角で涙したことか。いつもならニユーヨークに滞在していると、友人がスケジュールをいっぱいにしてくれるのが楽しみだったが、今回はマンハッタンに来ていることすら伝えられず、夜になると大好きな日本食屋「東京レストラン」のカウンターで一人で食事していた。ここのオーナー小平さんは昔から親しいので、私が昼間泣いた顔していってもわかってくれる。彼の所には今回事件に遭って脱出した人も来ていて、壮絶な体験談を聞かせてもらった。
瓦礫の中から15日目に助け出された1羽の”鳩!
頭がガンガンするほど泣いてしまう毎晩だった。80階からの脱出劇の感動と共に、消防士が人々を助けに階段を駆け上がっていく姿がいまだに頭に残っていると話してくれた。あの時の消防士は間違いなく亡くなったそうだ。消防士今度の事故でヒーローになっていたが、いくら職業とはいえ、あんな恐ろしいところへ行った彼らには、感謝してもしつくせないほどだ。
メトロポリタン・オペラのソプラノの歌手の友人は,早速、消防士の遺児たちのために学費を将来にわたって集めると頑張っていた。一晩で2億3千ドル集めたと自慢していたら、ニューヨーク・フィルハーモニーのメンバーの一人は2億ドルだ、と競っていた。どんなに有名なオペラ歌手でも出演料は勿論のこと、自分たちでも5000ドル、1万ドルを寄付するのだから頭が下がる。悲しい事件だったが、多民族国家のアメリカで今回いくつもの感動する場面に出会った。ニユーヨークの人々に素晴らしい物を数限りなく見せてもらい、胸が熱くなった。喪失した事務所の面積は東京ドームの78個分だそうだ。献血する人々は長い列を作り、ドラッグストアのデアン・リードはろうそくを山のように提供していた。
またレストランが行方不明の写真をもって,探している家族に「サンドイッチ」を提供していたし、近郊の医者は白衣を着たまま、バスでマンハッタンに駆けつけていた。彼らは必ず今まで以上にニューヨークが発展することを固く信じている。
”GOD BLESS AMERICA”のCDを買いに行ったら、有名歌手の物が特別コーナーにあり、このCDを買うと自動的に1ドルが寄付される。思わず10枚まとめ買いしてしまった・
102階から奇跡的に助かった消防士はニユーヨーク株式市場が再開された時ゴングを叩いた人だ。
彼は「ミラクルの人と紹介されたが、ミラクルがあるなら、亡くなった人全部に有って欲しかった」
と挨拶した。それ以降一切マスコミに登場しなくなった。350人程の消防士が亡くなったが、どの消防署にも殉職者を悼む気持ちが自然に溢れていた。
消防士はとても人気がある職業で、毎年消防士のカレンダーが飛ぶように売れるとのことだ。親子で消防士という人は街の名士だと古くから住んでいる人に聞いた。犠牲になった消防士の勇気を讃える陰で、目の前で仲間が死んでいったのが、生き残った人を苦しめていることも事実だ。
写真と花ろうそくが街にあふれていて、この惨劇から立ち直るにはまだ時間がかかるだろう。
宗教や貧困が世の中を複雑にし、地球を壊していくという悪循環に陥ってしまった。人種差別や宗教の違いで線引きすることを続けていたら問題は永遠に解決できないだろう。「標的」ではなく「同志」にならなくては、多民族で構成されたアメリカがテロや戦争から抜け出ることはあり得ない。
武器で制圧すると、人々は宗教に逃避し、正常な人間ではやらない狂信的なことをしてしまうのだ。テロは根絶しなければいけないと、ニユーヨークの惨劇を目の当たりにして痛切に思った。
GOD BLESS AMERICAという歌がベトナム戦争を描いた「ディア・ハンター」のラストシーンで流れたのを思い出す。戦死した友人を偲んで故人ゆかりのバーに集まり男たちが、誰からともなく無伴奏で歌いだすのだ。
あの瓦礫の中から15日目に濡れ鼠になった”鳩”が一羽生きて出てきた。救出隊員たちはひと時救いであっただろう。鳩に餌をあげ「ホープ」という名前を付けて空高く飛ばしたという話は新たな希望と喜びを感じさせる。がんばれ!!私の大好きなニューヨーク。






