96歳で亡くなられた森英恵さん、あの時代に職業婦人になってパリやニューヨークでコレクションをして、女性として尊敬してやまない方でした。40代の頃森英恵さんの蝶々🦋の模様のフリフリドレスが大好きだったのです。今着たらチンドン屋になってしまいますが、何とも言えない可愛いドレス。可愛いが通用する時期だったのですね。何とか。
良く母が申しておりました。戦争に行った父が戦地から帰って来なかったら「私だって森英恵になれたわよ」と。母は大正7年生まれですが、あの頃にしては女学校を出てから文化服装学園を卒業していました。母の姉も同じく文化服装学院出で、「お姉さまは学校から推薦されてパリに留学許可が出るほど優秀」だったそうだ。その割には着ている洋服はダサかったけど。母は一応文化を出て花嫁修行をしていたらしい。その後見合い3分で決められた父と結婚して福岡から対馬まで、それは、それは何度も聞いたものです。母の得意な洋裁はその後私と妹の洋服作りに役に足ったのですが、何が嫌か、妹とお揃いのドレスを作って着せられたことです。だから、今でもお揃いは絶対にいや!母は「二人同じ生地だと生地が倹約になる」と申しておりました。その頃生地の測り方は”ヤード”でした。何時の頃かメーターになりましたが、今もアメリカではヤードを使っています。キロじゃなくてマイルだし、変なところが頑固に昔風です。日本も戦争に負けた時はアメリカのやり方に追随していたらしい。何時ヤードからメーターになったか定かでは有りませんが、今でも浮かぶお揃いのワンピース、嫌でも物がない時代でしたから、母の苦悩が偲ばれます。森英恵さんが亡くなって母が森英恵さんにならなかった、いやなれなかった悔しさも多少あったかなぁ。ご冥福をお祈りします。