筑豊の遠賀川に育った荒くれ男のことを「川筋かたぎ」という。
昨夜BSでこの辺のお祭りを特集していて、炭鉱が華やかなりしころの画面に釘付けになった。
ぼた山、川すじ、筑豊、直方、若松港など遠賀川を中心にとてもいい番組でした。
私の母は根っからのシティー・ガール。
その証拠に文化服装学院の卒業生で、世が世なら”森英恵”になっていた、とまだ元気なころは
よく口にしていました。つまりデザイナー志望?
母の父親が日立造船の技師だったので、母の生まれは広島県因島だったそうだが、
すぐに横浜に転勤になり、その後シティー・ガール一直線。結構アプレ・ガールだったと自慢していた。
それが、どうして長崎県対馬出身の父の元へ嫁に行ったか?
当時の見合いは今考えると残酷です。第二次世界大戦の足音がひたひたと近づいていたので、
早く結婚しないと「男」がいなくなってしまう、と親の言いなりでたった15分しか見なかった人と
次は結婚式だったって。当時は当たり前みたい。
その証拠に母の姉妹も見合いで結婚させられていた。
そんなわけで、対馬出身の父と横浜育ちの母が結婚して福岡で生活し始めるのですが、
母はご飯を炊く火も起こせなかったって、自慢?していました。
私たちが育った若松も昨日画面にでてきましたが、家の前は石炭を運ぶトロッコの線路がありました。
昭和40年に炭鉱の大事故が起き、その後閉山、今ではすっかり衰退産業になってしまいました。
それでも川すじ気質はいいですねぇ。よか~~
若松港から石炭を運び出す、その港で遊んだ覚えがあります。
私の女学校の大親友が鞍手郡直方ということろへ嫁に行って、彼女はすっかり川筋女に変身していますが、
都会からあの街で暮らすのって凄いなぁ。それでも彼女のご主人は凄くいい人なので、
たぶん母も横浜から福岡へ行った時も「おとうちゃまがいい人だったから我慢できたのよ」と。
父はその当時炭鉱会社の経理部門に勤めていたらしい。父は5つ玉のそろばんを物凄いスピードで
はじいていました。
母は私たち子供に九州弁を使うことを禁止していたと覚えていますが、学校ではそうはいかず、
すっかり九州弁になっていました。昨日番組できゃぴきゃぴの九州弁を聞いて、胸がいっぱい!
男も女も九州弁に色気を感じるのは血なのでしょうか?